出口王仁三郎とはどんな方だったのでしょうか。 偉大な神道系の宗教家、太平洋戦争と日本の敗戦を早くから予言した予言者、数々の奇跡を起こした不思議な人物・・・。 いろんな人がいろいろな角度から出口王仁三郎のことを論じてきました。ですから、出口王仁三郎という名前はご存知の方も多いと思います。しかし、王仁三郎はなかなか一筋縄でとらえきれる人物ではありません。 王仁三郎は、そのあふれるばかりのエネルギーをさまざまな芸術作品にも噴出させました。まず和歌ですが、なんと生涯に10万首以上を詠んだといいますから、それだけでも驚くべきことです。しかも専門家も驚くような風格を備え、多くの歌人が王仁三郎のもとを訪れました。書画や彫刻にもたぐいまれな逸品を多数残し、見る者を圧倒せずにはおきません。 王仁三郎が晩年に制作した陶芸は、楽焼(らくやき)の手法をもとにしながら、まったく形にとらわれないユニークなもので、王仁三郎昇天後の昭和24年、陶芸評論家の加藤義一郎氏によって見いだされ、「耀碗(ようわん)」と命名され、国立博物館で最初の展覧会が開かれました。その大胆で、おおらかな形と、底ぬけに明るい色彩感覚は、陶芸界に大きな衝撃を与え、ヨーロッパ各地でも王仁三郎の芸術展が開催されました。最近では、横浜美術館の「戦後日本の前衛美術展」(平成6年)にも出品されました。 | 王仁三郎はこの「ようわん」を、田んぼや池の土で、しかも1年で三千個も作ったのですから、驚かずにはおれません。陶芸を知っている方ならおわかりと思いますが、焼き物はどんな土からでも作れるというものではないのです。 王仁三郎のやることは、質も量も圧倒的なものばかりです。 王仁三郎が残した教典『霊界物語』は81巻83冊もの大作で、王仁三郎はその1冊(A5サイズで約300ページ)をわずかニ、三日で口述しました! |
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出口王仁三郎という方は、まさに超人的なエネルギーでさまざまな物を生み出し、歴史や文化のなかに大きな足跡を残したのです。明治、大正、昭和前期と王仁三郎の生きた時代のほとんどは、いまとはちがって重苦しい雰囲気に包まれた時代でした。そのため王仁三郎の生涯は受難の連続でもありましたが、王仁三郎はいつも楽天主義を掲げ、人々に生きる希望を与え続けました。 いま、王仁三郎の実像を求めて新しい世紀への指針を得ようとする人々が増えつつあるのは喜ばしいことです。 |