愛善苑
 



未申の金神に扮する
王仁三郎(大正10年1月)

『大地の母』は第三次大本事件以前の教団機関紙『おほもと』の昭和43年6月号〜昭和44年5月号に初めて連載され世に出ました。これが元となって、毎日新聞社から全12巻書き下ろし、三年で完結という条件による出版が開始されます。

この出版までの経緯は不思議な神縁と佑助によるとしか表現できません。なにしろ通常は新聞や雑誌に連載され、既に読者の十分な反響を見てからの出版化や、有名作家によるものなら兎も角、全くの新人無名作家に対し、あの毎日新聞社がいきなり全12巻書き下ろしという、出版界の常識を超えた破天荒な出版に踏み切ったのです。

しかも、毎日新聞社とは昭和10年の第二次大本弾圧事件勃発当時、弾圧を扇動した新聞社である。(当時毎日新聞社の出版した小冊子に『大本教事件の全貌』などもある。) これをきっかけに、教団は日本全国各紙の非難悪口の渦中に叩き込まれ、著者自身も少年期には、周囲からずっといじめ抜かれることとなりました。ところが、この出版にあたっては、出口なお、出口王仁三郎、出口澄の半生記である『大地の母』の出版を好条件で行いたいと、毎日新聞社側から申し入れて来たのである。まさに奇縁としか言いようもない。

この『大地の母』執筆にあたり、三代教主・出口直日は「いっさい嘘はいけない。事実を曲げてはいけない。真実だけを書くのやで。大本の見苦しいところも何も全部さらけ出しなさい。たとえ私の醜い、汚いところがあっても、それを書かないといけません」と厳しく諭したといいます。また、三代教主への直接取材にあたっては、こんなことを言わなくても済ませるものを、と思うようなことまで、包まず教え、原稿の段階からくまなく目を通し、間違いがあれば教えるほどであったと言う。こうした三代教主の強い後押しにより、教団の隠されてきた裏面史を発表する下地を得ることができ、思い切って書くことができたと、著者・和明は感謝し、三代教主一人が読者であってもいいという思いで書き続けたと、心情を吐露する。


また、昭和45年夏、当時出版なかばの『大地の母』の王仁三郎の青春について、三代教主は、

「…聖師様は感じやすいといえば感じやすい人ですね。私は冷たい人よりもああいう人が好きですね。品行方正の、冷たい賢い人は嫌いやけど、あんなの可愛いですね。弱いところがなあ。感じやすくて。私、『大地の母』読んでからちっとも聖師様を嫌いや思いません。…聖師様のあの放埒なんか、ちっともおかしくないですよ。あれ悪いことでしょうかね。男やったらやっぱり聖師様のようになるねえ。私、聖師様のあの感じやすいところ、いいなぁと思います。ああいう間違いだらけの失敗だらけのところ、何ともいえない聖師様のよさがあるな思うて。『大地の母』読むまでそう聖師様はあんまり好きと思わなかったけど、母ばっかり好きで、よう母ばっかり苦労させたという恨めしい気持ちをもっていたけどね、『大地の母』見て聖師様が好きになったんよ。


布袋に扮する王仁三郎
(昭和8年9月28日)

だまされやすいというか、一生懸命になって働いとって何かの時にクルッと投げられるでしょう。…『大地の母』見て、王仁三郎という人の情におぼれやすい、そして思いきりのよいところに非常に親しみず持てる。理解ができたような気がします。田舎の人がいうでしょ、女好きということをもっと汚い言葉で、あれ言われた時はいやな気がして王仁三郎を軽蔑しとったこともありましこけど、今はちっとも侮辱しませんわ。あの本読んだなら何とも可愛い人やなあと思うてます。父は喜んでいるでしょう、和明のおかげで直日が見直してくれたというて…私ね、ちょっと分ったのは、『大本七十年史』をちょっとめくっておってね、可哀想やなあと思ったのが初めてです。そしてこんど『大地の母』みたら開祖様より好きになりましたわ。あの男なあ、ヒョコタンというのですか、あんなでけそこないのような人、あんなの、女の人には可愛がられるでしょうね。」

という素直な感想を口にしたという。

和明氏は、この三代教主の言葉について、「教主の立場でいながら、教祖王仁三郎について飾りけなく語るのが三代教主・直日のすばらしさである。直日は王仁三郎がきらいで軽蔑していたと正直にのべ、だが私は大地の母を読んで父を見直し、好きになったという、こうした三代教主・直日の言葉が涙が出るほど嬉しかったと述べていた。

このように『大地の母』は当時まだ生きていた開祖様時代を知る信者や関係者などの、生きた証人たちを次々に訪れ、生々しい証言を得る取材や現地訪問、膨大な大本の歴史史料を元につくられました。登場人物に関しても、ほとんどは戸籍を入手してからといった念入りなものでした。戸籍をどうしても入手できなかった登場人物は僅か2・3人だったとも聞きます。


開祖・出口 直


そして、何よりも執筆に行きづまったどたん場で次々と奇跡的に真実が発見され、思わぬ展開をうながされたと言った事は、生前の和明氏がよく語っていたことであり、「天界からの王仁三郎の導きがあったとしか考えられぬ。」と、たびたび口にしていました。


"大地の母"こと出口 澄

また、生前の和明氏は、「著者である私が自分の作品を宣伝するようで、こんなことを言うのは、本来恥ずかしいことかもしれませんが、出口王仁三郎聖師は生前、現界物語を書き残したいという想いを残されていました。『大地の母』はまさにそれで、私が書いたというよりも、聖師の導きによって出来たものとしか考えられないものなので、是非とも『大地の母』を読んで下さいと、恥ずかしげもなく言えるのだ。」ということを熱心に語ってくださっていた。

『霊界物語』を拝読する上で、意外なほど『大地の母』の出来事が参考になることが多いことは、両書を読まれた多くの方々の、一致するご意見です。何よりも歴史背景が分かりやすく、また出口王仁三郎聖師の心情を理解する上でも貴重な資料と言ってもいいでしょう。

出口王仁三郎聖師が書き残したいと思っていた現界物語とは出口なお、出口王仁三郎、出口澄の半生記であってこれが『大地の母』として世に著され、また、出口王仁三郎聖師が晩年に創設された愛善苑を復活させられた事も、『月鏡』「十和田湖の神秘」(出口王仁三郎聖師執筆)にあるように、「男装坊(出口和明氏)現世に再生し、弥勒の神業を継承して常盤に堅盤に神代を樹立するの経綸」だったと言えます。

どうぞ皆様も一度『霊界物語』とともに、『大地の母』をお読みになって下さい。そして、愛善苑でともに『霊界物語』の研鑽と実践をしましょう。お待ち申し上げております。



上田喜三郎と出口 澄の結婚。中央は出口 直。(明治33年1月1日)
プリンタ用画面

出口王仁三郎
ONISAVULO
English Chinese