出口王仁三郎の略歴を以下にご紹介します。



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※(右)渡台の折、台北分所にて撮影(昭和2年)



西洋暦和暦出来事
1871
8月
明治4年
旧7月12日
京都府亀岡市穴太で農業上田吉松、よね、の長男として誕生。幼名喜三郎(きさぶろう)。病弱ながら抜群の記憶力に恵まれ、神道と言霊学に通じた祖母うの、の英才教育を受ける。
1883明治16年13歳
偕行小学校の代用教員を勤める。
1898明治31年27歳
旧2月9日 喜三郎は自宅近くの高熊山に導かれ1週間の霊的な修行をする。
真神スサノヲ大神から救世主としての使命を告知される。
旧8月23日 京都府綾部に出向き金光教の布教所を作って筆先を出していた出口直と会うが、翌々日綾部を去る。
1899明治32年28歳
7月3日 出口直の迎えにより再び綾部に向かう。


高熊山の修行で「女神」と出会う。
1900明治33年29歳
元旦 喜三郎は出口直の末娘澄子と結婚。
出口直は金光教から離脱し、喜三郎は直とともに『金明霊学会』を設置する。


明治36年大阪で信者と
共に洋服を着た王仁三郎
1911明治41年37歳
8月 金明霊学会を『大日本修斎会』と改称する。一時御嶽教と関係したが、
12月 綾部に帰り、教団組織化に着手する。
1916大正5年45歳
2月9日 直霊軍の別動隊『白虎隊』を組織。
4月 大和畝傍山に参拝。
6月25日 兵庫高砂沖の「神島」開き。
この直後開祖出口直の筆先に『王仁三郎の霊が天のみろく様である』と出る。
直はこのとき王仁三郎の真実の姿に出会う。
1921大正10年50歳
2月 第1次大本事件が起こる。不敬罪、新聞紙法違反の罪。
大日本修斎会の一部知識人や軍人達が対米戦争や世の立替えを過剰に宣伝したことが原因。
6月17日 責付出獄。獄中生活は126日。
8月 『神霊界』を『神の國』と改題する。
8月5日 京都地方裁判所は、「不敬罪」で懲役5年の判決。直ちに控訴。
10月18日(旧9月18日)から祥雲閣において『霊界物語』の口述を開始。
1924大正13年53歳
2月13日 責付出獄(仮釈放)のまま、密かに綾部を発ち入蒙する。


入蒙のときの王仁三郎

3月3日 奉天を出発し、公爺府に入る。
6月21日 パインタラ(白音太拉)にて捕らえられ銃殺の瀬戸際に立たされる。
7月 責付を取り消され、再び大阪刑務所北区支所に収容される。
11月1日 保釈許可となり帰綾。
12月15日 再び『霊界物語』の口述を始める。
1928昭和3年57歳
2月1日 長女直日が高見元男(後に日出麿)と結婚式を挙げる。
3月3日 王仁三郎みろく大祭にて『弥勒下生の宣言』を行う。
  • 今日こそは五十六年七ヶ月みろくの神世の初めなりけり
  • 諸方面、諸ぼさつひきい、弥勒ぼさつ高天原より今日下生せり
  • 万代の常夜のやみもあけはなれ、みろく三会のあかつきよし

満月を背にした王仁三郎

5月 四国巡教『ふたな日記』執筆
7月 東北・北海道・千島・国後巡教『東北日記』執筆
この間亀岡にては月宮殿を始め諸種の建築物の竣成を見る。


月宮殿と王仁三郎
1933昭和8年62歳
旧1月1日付をもって大本を皇道大本と復帰し、大本瑞祥会を解消する。
2月6日 京都での対国際連盟緊急大会に昭和青年会を参加させる。
3月 紀州熊野神宮に参拝し、国威宣揚の祈願をする。
3月 国体会闡明運動を起こし、伊勢神宮ならびに香良洲神社に参拝。
6月20日 生母世根子刀自、帰幽。
10月4日 亀岡天恩郷にて『霊界物語』天祥地瑞の口述開始。
1935昭和10年64歳
2月7日 亀岡穴太の瑞泉郷(聖師の生家)で神聖神社鎮座祭を挙行
3月6日 台湾宣教、この後、神聖会のことでは活動を止められる。
8月11日 亀岡で神聖歌劇公演、自ら脚本を書かれる。
8月22日 16ミリフィルムで『昭和の七福神』を撮影
10月8日 大本映画部が聖師伝『霊山修行』の撮影開始
10月31日 第一回『歌祭り』が亀岡天恩郷で挙行される。
11月17日 第二回『歌祭り』が北陸別院で挙行される。
この頃、大本検挙の閣議決定が行われる。
12月6日 島根へ向かわれる。
12月8日未明 第二次大本事件勃発王仁三郎始め約200名逮捕。
3,000名が取調べを受ける。結果として61名が起訴される。不敬罪および治安維持法違反。松江から京都中立売署へ護送される。
1940昭和15年69歳
2月29日 京都地裁判決 全員有罪。直ちに控訴する。
10月16日 大阪控訴院で第1回公判行われる。
1941昭和16年70歳
10月25,26日 大阪控訴院高野裁判長に「上申書」を提出。無罪の全面的な主張を展開される。
12月8日 日本軍が対米・英宣戦布告。真珠湾を奇襲・マレー半島上陸
大本事件勃発より6年後の同日であった。
1942昭和17年71歳
7月31日 大阪控訴院判決 治安維持法は全員無罪。聖師さま外不敬罪で5年有罪の判決。原告、被告ともに大審院へ控訴。
8月7日 王仁三郎、二代澄子、出口宇知麿が保釈出所。聖師さま「日本はこれから負け始める」と発言。米軍ガダルカナル島上陸(本格反攻作戦行われる)
1944昭和20年74歳
4月12日 米軍の空襲で大審院に被害、事件関係記録355冊のうち229冊が焼失。
8月15日 日本が連合国に無条件降伏
9月8日   大審院で控訴棄却判決、大阪控訴院の刑が確定した。
10月17日 勅令による「大赦令」公布施行、大本事件の不敬罪が消滅した。
11月 綾部・亀岡の土地が大本教団に返還される。
12月 聖師さまのご指示により、『愛善苑』として新しく出発をすることに決まる。
12月8日 綾部で『大本事件解決報告祭』が挙行さる。


大本事件解決奉告祭。鶴山(本宮山)山上で祈りを捧
げる王仁三郎、二代教主・澄、出口宇知麿と信者達

12月10日 聖師さま清遊先の鳥取吉岡温泉で談話を発表される。(吉岡発言
1946昭和21年75歳
2月7日 熊野館で『愛善苑』設立者の会合。趣意書・定款・役員を内定
2月14日 愛善苑会則の決定。
4月1日  愛善苑機関誌『愛善苑』発行 初回10,000部
題字は聖師さまが書かれた。
1948昭和23年76歳5ヶ月9日
1月19日 午前7時55分 『愛善苑主出口王仁三郎』として御昇天
(現界での救世の御神業を終えられて帰天される)。
満76歳6ヶ月、数え年78歳。


葬儀 愛善苑主として。




王仁三郎(中央)と世界紅卍会(道院の活動団体)の会員