愛善苑本部のある亀岡市穴太(あなお)には、出口王仁三郎の生家跡があり、瑞泉郷(ずいせんきょう)と呼ばれています。王仁三郎の歌碑や、当時の池や井戸、樹木などがあり、明治時代の若き王仁三郎を偲ぶことができます。

穴太には王仁三郎が幾度も神示を受けた産土・小幡神社や、穴太寺もあります。

穴太は王仁三郎が二十九歳まで過ごした、懐かしい故郷です。王仁三郎の自伝や、出口和明著『大地の母』を読んで、散策すると楽しいでしょう。

穴太の集落から西に約1キロ行ったところに高熊山(たかくまやま)があります。高熊山は別名、丁塚山(ちょうづかやま)とも呼ばれています。

この中腹にある岩窟で王仁三郎は霊界に導かれ、神の道に目覚めたのです。

神気に満ちた霊山、高熊山へぜひ足をのばしてみてください。



穴太の里絵図(※画像をクリックすると拡大します。


穴太の里関係地図(※画像をクリックすると拡大します。




※(右)瑞泉郷玉の井前の王仁三郎




上田喜三郎(後の出口王仁三郎)の生家跡(現・瑞泉郷)


郷神社の説明にもありますように、豊受姫大神(豊受大神、豊宇気比売神)の鳳輿(ほうよ)が伊勢へおもむく折、一時この地に停泊し、その後、神霊へ供進の荒稲の種子が欅の穴へ落ち、稲穂が実ったという故事から、「穴生となり、穴尾となり、次に現今の穴太と改められたのである。」と地名の由来にも書かれている因縁の地で、神明社と呼ばれていた郷神社が、文禄年間に川原条へ遷座されるまで境内地であった所です。後に上田家のものとなって聖師様の生家ともなりました。周囲には久兵衛池と呼ばれる池と、玉の井と呼ばれる井戸があります。ただ、現在の地形と戦前の第二次大本弾圧事件前の地形とは若干異なる所があります。

精乳館


正式には、穴太精乳館上田牧牛場といい、郷神社の裏に位置した場所にあったようですが、現在ではその痕跡と言えるものは、ほとんどないようです。当初、園部で開業する予定でしかなかった牧場経営が、父母から「一生牧畜で身を立てるつもりなら、いっそ郷里の穴太ではじめてくれ」という要望から、新たに出資者を募り、結果として園部と穴太の両所で開業することとなりました。穴太精乳館は、明治29(1896)年1月1日開業しています。
詳しくは『大地の母』第二巻「穴太精乳館」に当時の詳しい状況が表現されておりますので、是非ご参照して下さい。

  • このときは明治二十九年の一月一日の開業なりける
  • 雨の夕べ雪の朝(あした)もいとひなく乳をしぼりて近村(きんそん)に売る
歌集『故山の夢』より


小幡神社


御祭神は、開化天皇(若(わか)倭(やまと)根子(ねこ)日子(ひこ)大(おお)毘(ひ)毘(ひの)命(みこと))、彦(ひこ)坐(いますの)王(みこ)、小俣(おまたの)王(みこ)です。
社伝によれば、小幡神社は和銅元(708)年に、大神朝臣狛(こま)麻呂(まろ)がその社殿を建立したとされておりますが、伝承では丹波道主命がその祖父にあたる開化天皇を創祀したことを始まりとしています。また、延喜式内の古社であり、全国的にも開化天皇を主祭神としているのは、この小幡神社だけといいます。
社蔵の神馬図は有名な円山応挙・応瑞の絵馬で、応挙の絵馬は全国的にも珍しいものです。聖師様にとっては産土神にあたり、三大学則をはじめ、多くの神教を授けました。また、神書『霊界物語』の書き出しが、この小幡神社と高熊山(古くは小幡神社の奥宮が高熊山に勧請されていたという)であることも、小幡神社の因縁の深さを感じさせます。


高熊山


「高熊山(たかくまやま)は上古は高御座山(たかみくらやま)と称し、のちに高座(たかくら)といひ、ついで高倉(たかくら)と書し、つひに転訛(てんくわ)して高熊山となつたのである。丹波穴太の山奥にある高台で、上古には開化天皇を祭りたる延喜式内小幡神社の在った所である。武烈天皇が継嗣を定めむとなしたまうたときに、穴太の皇子はこの山中に隠れたまひ、高倉山に一生を送らせたまうたといふ古老の伝説が遺(のこ)ってをる霊山である。」

『霊界物語』第一巻 第一章「霊山修行」より

「高熊山は曽我部町穴太区の奥山、丁塚山(高さ354m余り)の中にある高台で、出口王仁三郎の修業の場となったのは、山頂に近い巨岩が露頭した岩窟である。
明治三十一年三月一日(旧暦二月九日)より一週間、王仁三郎は神命のまにまにこの高熊山の岩窟にこもった。
旧二月の寒空のもと、じゅばん一枚でいっさいの飲食を絶ち、無言の行をする。そのあいだ、彼の精霊は現幽神三界をめぐり、神人感合の境地に達して宇宙の真相を体得し、救世の使命を自覚した。
救世主としての出口王仁三郎の原点はここにあり、いわば全人類の聖地といえよう。」

出口和明


喜楽亭


喜楽の名は、聖師様が冠句サークル「偕行社(かいこうしゃ)」で活動する時の雅号・安閑坊(あんかんぼう)喜楽(きらく)からとったもので、当時は周囲から愛称として「喜楽さん」と呼ばれていました。喜楽亭とは、郷神社近くに借り受けていた小屋で、穴太精乳館で働いていた頃に利用していた所です。

穴太寺


「宮成長者の創立した、西国廿(二十)一番の札所は即ち穴太に残っておって、今なお信仰者は京阪を初め全国にある。三荘太夫に虐使された槌世丸、安壽姫の守本尊たる一寸八分の黄金仏像は当寺に祭られ、本尊は三尺三寸の丈で運慶の作である。菩提山穴太寺は即ちこの名刹で、院主の姓を代々「穴穂」と名乗っている。」

『神霊界』大正十年二月号「故郷乃弐拾八年」より

「穴太寺の念仏堂を造作して四間に仕切り、之を小学校にあてたのが偕行小学校というのであった。王仁は十歳に成った年の四月に初めて入学したのである、校長は亀山の旧藩士で出口直道と云い月給五円を給されて居た。次に吉田有年と云う同じ亀山の藩士で月給三円の教師であった。月給は安くても其の時分は物価が今日と違って非常に安い。一石の米価が三円七・八十銭位で、石油一斗が二十銭以下であるから、却って、今日の五十円の月給取りよりも生活は安楽であった。王仁も十三歳から、二円の月給で同校の助教師として足掛け三年間奉職、下級の生徒に対して教鞭を振るった事がある。」

『神霊界』大正十年二月号「故郷乃弐拾八年」より

聖師様と穴太寺との関係としては、穴太寺の念仏堂を四間に仕切って偕行小学校として利用していたことから、小学生時代と助教師時代には毎日通っていたことと、青年となってから偕行社という名の冠句サークルを結成した時、例会の会場に穴太寺(あなおでら)を使用していた事、八木弁さんに恋心を抱いていた頃、穴太寺観音堂の法会で出会った時の思い出などがあります。


金剛寺(応挙寺)


臨済宗 天竜寺派 福寿山金剛寺。本尊仏は、釈迦如来像。
「円山応挙は、金剛寺(応挙寺)に九才の時入門し、仏弟子となったことで有名。」

(『大地の母』第一巻p.45参照)

「久兵衛池埋め立ての件について、金剛寺広間において総寄合いが開かれることになった。」

(『大地の母』第一巻p.113参照)

  • 金剛寺夜学にかよひて友がきと毎夜蒟蒻飯をたきくふ
  • 金剛寺栗山禅師に漢籍をならひをはりて経文をよむ
歌集『故山の夢』より

金剛寺は別名を応挙寺と呼ばれ、応挙が56歳の時、天明八(1788)年1月30日、京都中を焼き尽くす「天明の大火」によって一時的に亀岡の金剛寺に戻り、祖先及び両親の追善供養の為、本堂の襖に「群仙図襖・壁貼付・床貼付」(重文)、「山水図襖・壁貼付・床貼付」(重文)、「波濤図襖」(重文)などの寄進画を描いたことで有名ですが、聖師様にとっては、金剛寺の夜学から多くを学んだこともあり、偕行小学校(穴太寺)に並ぶ、もう一つの学校だったとも言えそうです。
また、久兵衛池事件時には、総寄合いが開かれた場所でもあります。


郷神社


「雄略天皇の勅命に依って、豊受姫大神を丹波国丹波郡丹波村比沼真奈井より、神風の伊勢国山田の村に移し祭り賜う神幸の途次、曾我部郷の宮垣内の聖場を択んで神輿御駐輦あらせられたのである。祖先が天児屋根命と云う縁故を以て、特に其の邸内に御旅所を定められた。一族郎党は恐懼して、丁重なる祭典を挙行し奉る際、神霊へ供進の荒稲の種子が、太く老いたる欅の樹の腐り穴へ散り落ちた。それが不思議にも、其の腐り穴から稲の苗が発生し、日夜に生育して、終に穂を出し、美わしき瑞穂を結んだ。里庄以て神の大御心と仰ぎ奉り、一大祈願を為し、神の許しを得て、所在の良田に蒔き付け、千本と曰う名を附して、四方に植え拡め、是より終に穴穂の里と謂うたのである。
当時の祖先は家門の光栄として、此の祥瑞を末世に伝えんが為に、私財を投げ出して、朱欄青瓦の荘厳なる社殿を造営し、皇祖天照大御神・豊受姫大神を奉祀し、神明社と奉称し、親しく奉仕したのである。
 其の聖跡は、現在上田家の屋敷なる、宮垣内である。宮垣内の名称は神明社建造の時より起こったのである。同社は文禄年間(西暦1592〜1595年)、川原条に移遷され、今なお老樹鬱蒼として昔の面影を止め玉うのである。
 王仁が今日、治教皇道大本の教主輔として、神君の為に一身を捧ぐるにいたったのも、全く祖先が尊祖敬神の余徳に因る事と、深く深く感謝する次第である。」

『神霊界』大正十年二月号「故郷乃弐拾八年」より

「神明社が宮垣内から川原条へ遷座されてから、後神明社と改称されたが、何時の間にやら、後神社と里人が唱え出し、今では郷神社と曰うように成って、穴太の産土なる延喜式内・小幡神社の附属となり、無格社に列せられ玉うに到ったのである。」

『神霊界』大正十年二月号「故郷乃弐拾八年」より

郷神社の御祭神は、天照皇(あまてらすめ)大神(おおかみ)、豊受姫命(とようけひめのみこと)です。
信心深い青少年期の喜三郎は、産土の小幡神社だけでなく、郷神社にも同じように参拝されていたようです。現地の伝承では「欅の樹の腐り穴へ」というところが、「桑の樹」に代わっている所もあるようです。


初恋の人・斎藤蘭の家の跡


お蘭さんとの恋の話は、『大地の母』第一巻「久兵衛池事件」p.104から登場します。偕行小学校で助教師として働いた後、百姓仕事と醤油のふり売りを始めましたが、貧しい家々から代金の回収を強いることができず断念し、変わって宮垣内の聖師様の生家に南隣する斎藤源治の家に下男兼秘書として奉公し始めた頃の事です。偕行小学校にこの春まで通っていた聖師様の教え子でもあり、ものしりで面白い喜三郎青年へ憧れを抱いていましたので、斎藤源治家の門脇の下男部屋を訪問しては、幼い恋心を燃やしていたのでしょうね。しかし、お蘭さんには親の定めた許婚者が居ましたし、二人の間には家柄・貧富の差という大きな壁が横たわっていました。聖師様にとっては甘酸っぱい思い出でしょうね。しかし、この頃、(明治20(1887)年)「久兵衛池事件」も勃発し、ここでも貧富の差による社会矛盾に対する強烈な反発意識を養うことになります。


殿山


「上田家の遠祖は、天照大御神天の岩戸に隠れ給いし時、岩戸の前に善言美辞の太祝詞を奏上し、大神の御心を和め奉りし天兒屋根命である。降って大織冠鎌足公の末裔である。有為転変の世の常として、浮世の荒風に吹き捲られ、文明年間(室町時代で西暦1469〜1486年にあたる、応仁の乱が1467〜1477年であり、山城・大和・河内などで激しい土一揆の蜂起があった時期でもある。)、大和国より一家を率いて、大神に因縁深き丹波国曽我部の郷へ落ちて来たのである。」

『神霊界』大正十年二月号「故郷乃弐拾八年」より

「(上田家の)系図の示す所に由れば、文明年間には西山の山麓、高尾と云う所に大きな高い殿閣を建てて、其処に百余年間、高屋長者と呼ばれて住居して居たと云う事である。其の後、愛宕山の麓の小丘に城郭を構え大名の列に加わって居った所が、明智光秀の為に没収の厄に逢うたのである。其所は産土の小幡神社の境内に接続して居って、殿山と曰う地名に成って居るが、今に城址が歴然として地形に遺って居るのである。」

『神霊界』大正十年二月号「故郷乃弐拾八年」より

と、「故郷乃弐拾八年」にもありますように、小幡神社の境内に接続した裏山で、現在では城址?!と思えるほどでしかありませんが、地形としては僅かにその余情を残しています。


犬飼川(小幡川)


京都府亀岡市曽我部町穴太を流れる川で、穴太を流れる頃の川の様子は、通常浅く、水量もそれほど多くありません。やがて桂川へと合流し、嵐山の横を流れ、さらに淀川となって、新大阪駅の横を流れ、大阪湾へと流れ込みます。
『大地の母』を御覧になれば、青少年期の喜三郎が、いつもその水面に影を映しながら生活していた事がわかります。穴太精乳館の頃には牛たちを川の水で洗ってやったと言ったこともあったようです。


ぜひ一度、穴太を散策してみてください!