![]() 『霊界物語』 第五巻 「序文」に 「この物語は、去る明治三十二年七月より、三十三年の八月にかけて、一度筆を執り、これを秘蔵しておき、ただ二三の熱心なる信者にのみ閲覧を許してゐました。しかるにこれを読了したる某々らは、つひにいろいろのよからぬ考へをおこし、妖魅(えうみ)の容器となつて帰幽したり、また寄つて集つて五百有余巻の物語を焼き棄ててしまつたのであります。 |
![]() 高熊山岩窟での体験の様子を再現 |
「自分は立派な女神の姿に変化したままで、一生懸命に半紙にむかつて機械的に筆をはしらす。ずゐぶん長い時間であつたが、冊数はたしかに五百六十七であつたやうに思ふ。そこへにはかに何物かの足音が聞えたと思ふまもなく、前の「中」という鬼が現はれ、槍の先に数十冊づつ突き刺し、をりからの暴風目がけ中空に散乱させてしまうた。さうすると、又もや数十冊分の同じ容積の半紙が、自分の前にどこからともなく湧(わ)いてくる。また是も筆をはしらさねばならぬやうな気がするので、寒風の吹きすさぶ野原の枯草の上に坐つて、凹凸(あふとつ)のはなはだしい石の机に紙を伸べ、左手(ゆんで)に押さへては、セツセと何事かを書いてゐた。そこへ今度は眼球(めだま)の四ツある怪物を先導に、平(ひら)だの、中(なか)だの、木(き)だの、後(ご)だの、田(た)だの、竹(たけ)だの、村(むら)だの、与(よ)だの、藤(とう)だの、井(ゐ)だの印(しるし)の入つた法被(はつぴ)を着た鬼がやつてきて、残らず引さらへ、二三丁先の草の中へ積み重ねて、これに火をかけて焼く。」
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とあり、既に明治三十一年二月の高熊山修行の時、神様から今後にある事などはこうした形で知らされていたとも、既に霊界にこのような型があるので、出口王仁三郎聖師が現界で如何にこれを立替え、霊界の型を写した現界の型を出せるかということにもなると思われます。これが後に現実化し、大正六年十一月號の『神霊界』には、 ※(左)現在の高熊山岩窟 |
「變生女子の御魂に、坤の金神を初め、数多の神霊憑り玉ひて、預言なり、警告なり、教理など書き誌されしもの數千冊ありけるが、明治三十六年と同三十八年の二回に渡りて、大本の役員等、變生女子の書きし物は、残らず乱世の根本なりと誤解し、一所に山の如く集め火を放ちて焼棄したるを以て、今は只々一二人の確実なる人の手に在りし小部分の遺れるのみ。」と記されており、明治三十六年と三十八年の二度、書きためた原稿を役員に焼かれていたようです。しかし、この時焼かれずに残された書物に、『霊の礎』『筆のしづく』『道の栞』『道の大本』『本教創世記』などもあります。こうした出口王仁三郎聖師の熱意は、その後の『霊界物語』成立へと繋がって行きます。
『霊界物語』は、当時の教団機関紙『神霊界』誌上(大正十年二月号・134号、同三月号・135号)に発表された「回顧録」に始まります。この「回顧録」は現在の『霊界物語』では第一巻の第一章から第十二章にあたりますが、「回顧録」を『霊界物語』として発刊するにあたって、当時の役員信者の強い抵抗に合い、書き換えを余儀なくされました。こうした動きは、当時の出口王仁三郎聖師を取り巻く有力な信者たちが出口王仁三郎聖師に憑いている大神様の神格を理解できなかったことが原因ともいえます。 ※(右)大正8年頃の王仁三郎
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「今迄の濁酒といへども好く注意して飲んで居た人には良薬にこそなれ、決して毒には成って居ないのであります。只下戸の中に一人や二人や三人位い悪酔ひして、乾坤一擲と云うやうな管を巻いて、皆さんに心配をかけた泥酔者が、少しく現はれたに過ぎないので在ります。」と表現されております。こうした当時の状況を別名「どぶろく時代」ともいい、正味と粕がまぜこぜになった状態、つまり、正しい信仰を持った者と、そうでない者、機関紙『神霊界』の記事にしても出口王仁三郎聖師の書かれたものと、そうでないもの、がまぜこぜになった状態を表しています。
「其代りとして三千年間の日子を費やして、{~の造られた清酒の賣出しを致します。酒の名は大江山の鬼ころしと命名しました。」この「大江山の鬼ころし」と表現されておりますのが、後の『霊界物語』になります。
![]() 『霊界物語』は出口王仁三郎聖師が口述され、これを傍らで筆記するという形で進められました。この筆記する方を筆録者といいます。筆記方法は速記によるものではなく、口述されるままをノートやザラ紙に書いて、後に原稿用紙に清書していました。また、出口王仁三郎聖師は布団の上に横たわったままで口述されていました。 ある時はいざ口述を始めようとされると、出口王仁三郎聖師のお腹が膨れてきて、どうしても口述しない訳には行かないという状態となり、口述を終えられるや、お腹がスゥット引っ込むという状態だったそうです。 | ![]() 霊界物語を口述する王仁三郎。(於綾部教主殿) |
![]() 新潟県寺泊分院にて(昭和3年) |
『霊界物語』第二巻「序」に、「…口述者は、本春以来眼を病み、頭脳を痛めてより、執筆の自由を有せず、かつ強て執筆せむとすれば、たちまち眼と頭部に痛苦を覚え如何ともすること能はず、殆んどその取扱ひについて非常に心神を悩めてゐたのであります。その神教降下ありて後、十日を過ぎし十八日の朝にいたり、神教ありて『汝は執筆するを要せず、神は汝の口を藉りて口述すべければ、外山豊二、加藤明子、桜井重雄、谷口正治の四人を招き、汝の口より出づるところの神言を筆録せしめよ』とのことでありました。…」とあり、第七十二巻までの御口述の状態は多くの場合、まず、30分程横になり、この眠りから覚めると布団に横臥したままで、一種のトランス状態となり、一冊の参考書も置かず、口述には全く淀みもなく、言い直しも無かったと言います。また、当初は一巻に十日ほどであった口述のペースも、やがて筆録者が慣れてくるにつれ、三日で一冊というハイペースで口述されて行くようになり、第四十六巻は二日間で口述されています。 |
最も戦慄すべく、もつとも寒心すべき猛鷲(まうしう)の、暗雲の中より飛来して、聖処を荒し暴威を振はむとする三日前の夜半、松雲閣(しよううんかく)に瑞月(ずゐげつ)が心さびしく横臥せる枕頭に、忽然として現はれたまへる教祖の神影、指示桿(しじかん)をもつて、三四回畳を打ちたまふ様、あたかも馬に鞭打つがごときその御模様(おんもやう)、瑞月は直ちに起き直り、頓首(とんしゆ)合掌しながら、「いよいよ明日より神界の御命(ぎよめい)のごとく、霊界物語の口述に着手いたしますから、御安心下さいませ」と申し上げるや、直ちに打ちうなづき莞爾(くわんじ)として、貴き麗(うるは)しき神姿を隠させたまひました。それよりいよいよその翌日なる昨年十月十八日より着手することになりましたが、教祖の御加護日に月に加はり、御蔭をもつて病気中にもかかはらず、やうやく第八巻を口述しをはることを得ました。
神代(かみよ)における神々様の世界宣伝の御模様は、本巻よりいよいよ明瞭になつてきます。読者の中には、霊界物語は教祖の御意志に反したる著述のごとく、誤解されてをる方々もあるやうに聞きますから、その誤りを解くために総説に代へ、一言ここに本書出版の教祖の神の御神慮に出でたる理由を簡単に説明しておきます。
大正十一年二月十一日
王仁