出口王仁三郎の略歴(本格バージョン)を以下に ご紹介します。 ※(右)亀岡中矢田農園にて(昭和19年末〜20年初頭)
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西洋暦 | 和暦 | 出来事 | |||
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8月 1871 | 明治4年 旧7月12日 |
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1874 | 明治13年 | 満10歳 春、穴太寺の境内にある偕行小学校に入学。 | |||
1883 | 明治16年 | 13歳 地元偕行小学校の代用教員を勤める。 | |||
1884 | 明治17年 | 14歳 貧しい小作農の子であった喜三郎は、弟妹5人の家計を支えるため丁稚奉公に出る。 その後、油醤油売りや京都までの荷車引きに従事し辛酸をなめる。 | |||
1893 | 明治26年 | 22歳 京都船井郡園部で牧場に勤めながら、もちまえの忍耐力で獣医学、和歌、漢文、歴史、国学を修得。 | |||
1894 | 明治27年 | 23歳 岡田惟平翁に師事し始めて敷島(和歌)の道を学ぶ。 | |||
1896 | 明治29年 | 25歳 穴太と園部で精乳業を始め、和歌や冠句の結社を作る。 また熱情家で多感な青春時代を送る。 | |||
1898 | 明治31年 |
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1899 | 明治32年 | 28歳 7月3日 出口直の迎えにより再び綾部に向かう。 | |||
1900 | 明治33年 | 29歳 元旦 喜三郎は出口直の末娘澄子と結婚。 出口直は金光教から離脱し、喜三郎は直とともに『金明霊学会』を設置する。 | |||
1906 | 明治39年 | 32歳 秋から『筆の雫』、『玉の礎』などの執筆を始める。 | |||
1907 | 明治40年 | 33歳 12月 『道の栞』4巻を脱稿する。 | |||
1909 | 明治42年 | 35歳 9月 京都皇典講究所(京都國學院大学の前身)に入学、翌春卒業。在籍中に雑誌『このみち』を創刊。 | |||
1910 | 明治43年 | 36歳 4月 皇典講究所を卒業。 5月 別格官幣社建勲神社の主典となるが、、12月辞任。 | |||
1911 | 明治44年 | 37歳 8月 金明霊学会を『大日本修斎会』と改称する。一時御嶽教と関係したが、12月綾部に帰り、教団組織化に着手する。 | |||
1914 | 大正3年 | 43歳 8月 大日本修斎会の機関雑誌『敷島新報』を創刊。 9月25日 宣伝部隊『直霊軍』を組織。 | |||
1916 | 大正5年 | 45歳 2月9日 直霊軍の別動隊『白虎隊』を組織。 4月 大和畝傍山に参拝。 6月25日 兵庫高砂沖の「神島」開き。 この直後開祖出口直の筆先に『王仁三郎の霊が天のみろく様である』と出る。直はこのとき王仁三郎の真実の姿に出会う。 | |||
1917 | 大正6年 | 46歳 1月 『敷島新報』を『神霊界』と改題、直の筆先を発表し始める。 ※『神霊界』大正六年二月号から『神諭』が発表される。『神諭』とは、直の「お筆先」を王仁三郎が漢字を当て行を変え句読点を付すなどの添削をしたもの。 | |||
1918 | 大正7年 | 47歳 4月 大和三山を巡る。 11月6日 出口直昇天、83歳 | |||
1919 | 大正8年 | 48歳 11月 亀岡の旧城址(明智光秀築城)を買収。現在の天恩郷 | |||
1920 | 大正9年 | 49歳 5月 大和龍門岳を巡る。 8月 大阪の『大正日々新聞』を買収、経営を始める。 | |||
1921 | 大正10年 | 50歳 2月 第1次大本事件が起こる。不敬罪、新聞紙法違反 大日本修斎会の一部知識人や軍人達が対米戦争や世の立替えを過剰に宣伝したことが原因。 ![]() 取りこわされる本宮山神殿(10月)
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1922 | 大正11年 | 51歳 2月4日 大日本修斎会を『大本瑞祥会』と改称する。 | |||
1923 | 大正12年 |
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1924 | 大正13年 | 53歳 2月13日 責付出獄(仮釈放)のまま、密かに綾部を発ち入蒙の途につく。 6月21日、パインタラ(白音太拉)にて捕らえられ銃殺の瀬戸際に立たされる。 7月 責付を取り消され、再び大阪刑務所北区支所に収容される。 11月1日 保釈許可となり帰綾。 12月15日 再び『霊界物語』の口述を始める。 | |||
1925 | 大正14年 | 54歳 1月20日 大本および大本瑞祥会の規約組織の大改革を行う。 5月11日 最高点にて綾部町町議に当選 5月20日 『世界宗教連合会』を創立し、北京において発会式を挙行。 6月9日 『人類愛善会』設立。 7月15日 大審院で大本事件の一審判決破棄、事実審理決定。
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1926 | 大正15年 昭和元年 | 55歳 2月頃 楽焼の製作を始める。 5月 歌日記の執筆開始。 この間亀岡にては神苑の造営大いに進捗する。 | |||
1927 | 昭和2年 | 56歳 5月17日 大本一次事件は大正天皇崩御による大赦令で原審破棄・免訴となり、事件は解消する。 12月 台湾巡教 ■昭和2年12月王仁三郎直筆の歌の一部を見る | |||
1928 | 昭和3年 | 57歳 2月1日 長女直日が高見元男(後に日出麿)と結婚式を挙げる。 3月3日 王仁三郎みろく大祭にて『弥勒下生の宣言』を行う。
7月 東北・北海道・千島・国後巡教『東北日記』執筆 この間亀岡にては月宮殿を始め諸種の建築物の竣成を見る。 | |||
1929 | 昭和4年 | 58歳 3月 四国巡教 4月 伊勢神宮及び香良洲神社参拝、甲斐、信濃地方巡教 4月 甲斐、信濃地方巡教 10月 台湾巡教 11月 『北国夕刊新聞』(金沢市)の経営を始める。 この年より全国各地に於いて聖師作品展を開催する。 | |||
1930 | 昭和5年 | 59歳 3月 京都での宗教博覧会参加し、大本館を特設して出品する。 ![]() 宗教博覧会の大本館。京都・岡崎公園で開催。 9月 山陰および壱岐対馬巡教。 人類愛善新聞社および人類愛善会東洋本部を亀岡より東京に移す。 ![]() 東京の四谷区霞ヶ丘町に進出した人類愛善新聞社 12月 再度の台湾巡教。 (台湾には昭和6年1月1日〜26日まで、26日間滞在) ・昭和5年12月29日 亀岡出発。 ・昭和6年1月1日 基隆に到着。汽車で台湾(草山)別院へ。 ・昭和6年1月2日 台湾神社(現在は圓山大飯店)参拝。 ・昭和6年1月3日 台湾(草山)別院の開院式。 ※草山歌碑(憧憬歌碑)のお歌:
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1931 | 昭和6年 | 60歳 8月 満60歳の還暦を迎えて更生祭を行う。 歌壇に進出し、80余の歌壇結社に加入する。 数ヶ月間に歌集数冊を発刊する。 9月8日 綾部本宮山頂に神声碑建立。10日後満州事変勃発する。 9月下旬 山形、北海道へ巡教。 10月18日 『霊界物語』口述開始10周年記念日を迎える。 同日 昭和青年会を結成し雑誌『昭和青年』を発刊する。 12月 四国巡教。 人類愛善会と中国「聖道理善会」(在理会)と提携させる。 その他世界各国の精神運動団体との提携が進む。 | |||
1932 | 昭和7年 |
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1933 | 昭和8年 | 62歳 旧1月1日付をもって大本を皇道大本と復帰し、大本瑞祥会を解消する。 2月6日 京都での対国際連盟緊急大会に昭和青年会を参加させる。 3月 紀州熊野神宮に参拝し、国威宣揚の祈願をする。 3月 国体会闡明運動を起こし、伊勢神宮ならびに香良洲神社に参拝。 6月20日 生母世根子刀自、帰幽。 10月4日 亀岡天恩郷にて霊界物語『天祥地瑞』の口述を開始する。 ![]() 霊界物語『天祥地瑞』の口述を記念して 王仁三郎と近侍の筆録者たち(10月3日) | |||
1934 | 昭和9年 | 63歳 1月〜4月 伊豆湯が島から上京、軍部要人らとの会見を行う。 3月 『人類愛善新聞』百万部突破。 7月22日 東京九段で『昭和神聖会』発足大会が挙行される。聖師は統監。 この年の暮れ頃から、内務省の指示により京都俯特高課が大本刊行物の調査を始める。 ![]() 昭和神聖会の発会式 壇上の王仁三郎(中央やや右) | |||
1935 | 昭和10年 | 64歳 2月7日 亀岡穴太の瑞泉郷(聖師の生家)で神聖神社鎮座祭を挙行。 3月6日 台湾宣教、この後、神聖会のことでは活動を止められる。 8月11日 亀岡で神聖歌劇公演、自ら脚本を書かれる。 8月22日 16ミリフィルムで『昭和の七福神』を撮影。 10月8日 大本映画部が聖師伝『霊山修行』の撮影開始。 10月31日 第一回『歌祭り』が亀岡天恩郷で挙行される。 11月17日 第二回『歌祭り』が北陸別院で挙行される。 この頃、大本検挙の閣議決定が行われる。 12月6日 島根へ向かわれる。 12月8日未明 第二次大本事件勃発 聖師さま始め約200名逮捕、3,000名が取調べを受ける。結果として61名が起訴される。罪名不敬罪および治安維持法違反。 松江から京都中立売署へ護送される。 | |||
1936 | 昭和11年 | 65歳 1月20日 教団の全出版物が発売禁止となる。 1月27日 聖師さま長髪を切られる。その写真で「6本指で無罪」のサインを出される。 2月4日節分 京都市中記録的的な吹雪と大雪に見舞われる。雷鳴が轟く。 2月26日 東京で青年将校らの「二・二六事件」突発。 3月13日 広田弘毅内閣が大本起訴を決済。皇道大本など関連団体の結社禁止・解散命令が出される。 6月12日 綾部・亀岡の大本関連施設の破壊完了。 | |||
1937 | 昭和12年 | 66歳 7月7日 中国で廬溝橋事件起こる。日中戦争開始。 | |||
1938 | 昭和13年 | 67歳 1月29日 京都で弁護団の会合行う。(清瀬、林、高山ら18名) 8月10日 京都地裁で第1回公判、以後104回行われたが非公開。 12月21日 出口日出麿が精神分裂症と診断される。原因は取調べの拷問によるもの。 | |||
1939 | 昭和14年 | 68歳 3月13日 弁護団から検察側の調書偽造を告発 5月12日 ソ満国境のノモンハンで日ソ両軍の戦闘、日本軍完敗する。 7月24日 第77回公判で事実審理は終了、被告の順次保釈が始まる。 9月3日 英・仏がドイツに宣戦布告、第二次世界大戦始まる。 11月10日 弁護団最終弁論(全員無罪を主張) | |||
1940 | 昭和15年 | 69歳 2月29日 京都地裁判決 全員有罪。直ちに控訴する。 10月16日 大阪控訴院で第1回公判行われる。 | |||
1941 | 昭和16年 | 70歳 10月25,26日 大阪控訴院高野裁判長に「上申書」を提出。無罪の全面的な主張を展開される。 12月8日 日本軍が対米・英宣戦布告。真珠湾を奇襲・マレー半島上陸。 大本事件勃発より6年後の同日であった。 | |||
1942 | 昭和17年 | 71歳 7月31日 大阪控訴院判決 治安維持法は全員無罪。王仁三郎不敬罪で5年有罪の判決。原告、被告ともに大審院へ控訴。 8月7日 王仁三郎、二代澄子、出口宇知麿が保釈出所。王仁三郎「日本はこれから負け始める」と発言。 米軍ガダルカナル島上陸(本格反攻作戦行われる) | |||
1943 | 昭和18年 | 72歳 5月 亀岡中矢田の居宅(熊野館)で世の立直しに関するお歌を出される。歌集『月照山』に収録。 | |||
1944 | 昭和19年 | 73歳 12月28日 聖師さま、「楽焼」を始められる。昭和21年3月までに約3,000個制作される。 | |||
1944 | 昭和20年 | 74歳 4月12日 空襲で大審院に被害、事件関係記録355冊のうち229冊が焼失。 8月15日 日本が連合国に無条件降伏 9月8日 大審院で控訴棄却判決、大阪控訴院の刑が確定した。 10月17日 勅令による「大赦令」公布施行、大本事件の不敬罪が消滅した。 11月 綾部・亀岡の土地が大本教団に返還される。
12月10日 王仁三郎、清遊先の鳥取吉岡温泉で談話を発表される。(吉岡発言) ![]() 吉岡温泉清遊。王仁三郎はこの地で 所信を述べ世界の平和を予言した。 | |||
1946 | 昭和21年 | 75歳 2月7日 熊野館で『愛善苑』設立者の会合。趣意書・定款・役員を内定 2月14日 愛善苑会則の決定。 4月1日 愛善苑機関誌『愛善苑』発行 初回10,000部。題字は王仁三郎が書かれた。 7月16日 王仁三郎、紀州御巡教 8月26日 亀岡月照山の整地を行い、『月の輪台』を築かれる。王仁三郎、脳溢血で床につかれる。 12月8日 愛善苑第1回全国代表者会議開催。愛善苑趣意書の発表 | |||
1947 | 昭和22年 | 76歳 6月5日 瑞月文庫第1編『愛善の道』発行 8月27日 満76歳の誕生日『瑞生祭』挙行。参拝者4,000名。 | |||
1948 | 昭和23年 |
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