刊行を了えて
出口和明




出口和明

最終巻まで読み続けて下さって、嬉しいです。皆さま一人一人に、心からお礼を申し上げます。

思い返せば、毎日新聞社版「大地の母」(全一二巻)執筆当初(一九六九年四月、一九七一年八月)の二年余は、他のすべてを押しのけて執筆に没入できる、恵まれた境遇にあった。
三人の息子を母屋の父母に預け、二歳の娘のみ連れた家内を助手に、一切の雑事から解放されて蔵に籠った。

取材に当たっては、出口直昇天在世中から共に大本の歴史を歩んで来た生き証人たちを訪れ、生々しい証言を得ることができた。
当時は戸籍の入手が容易で、登場人物の大半は戸籍により(重要人物はその係累に至るまで)、正確を期することができた。文献や王仁三郎の歌集、資料類はこなし切れぬほど豊かであり、四十歳前後の未熟さながら、私の気力も体力も充実していた。

そして何よりも執筆に行きづまったどたん場で次々と奇跡的に真実が発見され、思わぬ展開をうながされたことは、天界からの王仁三郎の導きがあったとしか考えられぬ。

続「大地の母」の執筆準備中(一九七三年五月)、私の父出口伊佐男が逝った。
私は父の遺志を継ぐはめになり、心ならずも大本教団に奉職した。

教団内部に入って時がたつうち、その変質ぶりに慄然とした。そこでは出口直も出口王仁三郎も過去の人であり、筆先も霊界物語も過去の教典であった。立替え立直しの大本本来の使命は捨て去られ、大本は大本もどきに堕していた。少数であっても、そのことを真剣に憂うる教団の奉仕者や地方の信者のいることも、私は知った。

一九八〇年三月、このままでは遠からず大本教団の生命は失われるとの危機意識に立つ有志らは「いづとみづの会」を結成、教団改革運動ののろしを上げて激しい言論戦を展開した。世間ではこれを「第三次大本事件」と呼ぶ。早くから王仁三郎の予言していた通りであった(拙著・自由国民社刊「第三次大本事件」参照)。

やがて私はじめ改革派はすべて教団を追放されるが、一九八六年「いづとみづの会」を母体に愛善苑(神素盞嗚大神を主神、「霊界物語」を教典、出口王仁三郎を永遠の苑主とする)が発足する。

もともと愛善苑は王仁三郎の提唱になるもの。敗戦の年の十二月八日、第二次大本事件勃発十年目のこの日、廃墟と化した綾部の御苑で大本事件解決報告祭が行なわれ、王仁三郎の意志として「今までの大本教団の古い殻を全部投げ捨てて、愛善苑として新発足する」と宣言したことに始まる。


昭和20年12月8日の大本事件解決奉告祭。鶴山(本宮山)山上で祈りを
捧げる王仁三郎、二代教主・澄、出口宇知麿(和明氏の実父)と信者たち


一九四八年一月一九日初代苑主出口王仁三郎が昇天するや、教団は次第に捨てたはずの大本の古い殻をまとって、愛善苑を切り放つ。

王仁三郎がなそうとして果たせなかったその遺志を継ぐ私たちは愛善苑を再生し、小さいながら確実な足どりで進んできた。王仁三郎を求める新しい仲間も増えている。

続編を書こうと準備してから、早くも二三年が経過していた。その間の私の歳月は愛善苑の今日のために必要であったと思う。

愛善苑が着実に歩み出した今、私の中に長い間埋もれていた執筆意欲が沸き起こってきた。現在抱えている二、三の執筆を終わると、「大地の母」の姉妹編として、私なりの切り口で「第一次大本事件(入蒙を含む)」に取り組みたい。もしまだ余生があるならば、「第二次大本事件」にと、夢はふくらむ。

それぞれ時期的にはずれるが、塩見雅正氏を中心に祷正己・山道良春氏の的確な取材協力を、さらに大幅加筆に当たっては、工藤真美さんの惜しまぬ取材助力を得たことを深く感謝する。

文庫本「大地の母」刊行に当たって、旗手康人(鹿児島)・兼松和夫(岐阜県)・目崎学(千葉県)・石垣なつみ(三重県)・田代美穂子(亀岡)の愛善苑の仲間の諸氏が分担してワープロ入力を御奉仕いただいたと聞く。

私の二階の書斎の窓と「あいぜん出版」の編集室の窓が指呼の間に向い合っている。短期間の刊行のため、連日、深夜まで、時に夜を徹しての編集作業の灯が見えた。本当に御苦労さま。

ほかにも多くの人たちの蔭からの援助によって、出版完結までこぎ着けた。刊行中も次々と読者からの励ましのお言葉を頂き、作家冥利に尽きる幸せをかみしめている。

王仁三郎の思想に共鳴し、世界改造運動に志す方は、愛善苑に御連絡下さい。


講演中の著者